Come as you are (40)

大学構内の仕事を保証して貰ってようやく取った査証の縛りがありはしたが、アメリカの土を踏んでしまえばこっちのもので、私は構外のアルバイトも結構こなした。前稿のSafewayもそうだが、日系一世たちがみなそうだったのだろう、日本人は器用で信用できるという世評を追い風に、生来の手際よさも役立ってアルバイト先では重宝されたものである。これはそんなエピソードの一つだ。

ボイシに着いてまだひと月も経っていなかったころ、キャピトル通りを東に進み停車場へ向かう途中に、大きなネオン看板があった。Come As You Areという文字がアーチ状に1文字ずつ点滅する派手な奴で、魚をあしらった看板がSeafood Restaurantとしてある。後年ラスヴェガスで見ることになる動くネオンサインのプロトタイプのような、日本では終ぞ見たことのなかったものだ。

あの往還を東へ行くたびにこれが厭でも眼に入るのだが、気になったのはその大きさや派手さばかりではなかった。魚を食わせる店は分かるのだが、Come As You Areという踊り文字の意味が咄嗟に呑み込めない。いらっしゃいという語感は分かる。とはいえ、広告なら魚が旨いぞとか評判のメニューなどをちらつかせそうなものだが、どうも様子が違う。どういう意味だと聞けば済むのだが聞きそびれて、うやむやのまま1年が過ぎた。

寮の飯も1年も食えば流石に飽きる。気にいったソーセージも立て続けとはいかない。味噌汁納豆は考えないことにしていたし、あろう筈もないから苦にはならなかった。そんなある日、私は例のSeafood Restaurant を思い出した。

「魚か・・・」

大根下ろしとサンマがちらと脳裏に浮かぶ。にぎり寿司の走馬燈が過(よ)ぎる。鯖の味噌煮、鰻重、いや切ない話だ。そんなものを食わせてくれようとは思わないが、魚料理と謳うなら、魚っぽい何かが食えるかもしれない。その店の存在を突如意識し始めたのだから身の程知らずもいいところだ。

その頃の私の経済はぎりぎりで、ラウンドハウスのコイン規模の食い物以外、外食などは夢の夢だった。それでも思い浮かべるのは自由で、このレストランのメニューをあれこれ想像しては歯噛みをしていた。そんな時、例の Come As You Are がまた気になりだしたのだ。

これが分かれば魚が食えるわけではないのだが、純に英語の表現として知りたいと思った。易しい単語の羅列だから、友だちに聞いて、なんだ知らないのかと思われるのも癪だと思った。そうだ、トムに何気なく聞いてみよう。トムならこっちのもの知らずを笑いはすまい。

“Say, Tom. You know the seafood restaurant out there by the boulevard?”

“Yop, I do. What about it?”

“They say, Come As You Are. What does that mean?”

“Come as you are…. it means you don’t have to dress up, you can come as you are, see.”

私は唖然とした。自分の語感の盲点に気付いたからだ。今でこそ笑い話だが、私の英語感覚はまだその程度だったのだ。着飾らなくてもいい、普段着でいい。Come As You Areか、なるほどそういうことか。ならば金があれば気軽に行けるなとその時思ったのだが、何とそれから二三ヶ月後にそのレストランでアルバイトとして働くことになる。その経験談は稿を改めてお話ししよう。

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