老ひの実り

先日、某美術評論家の談義をユーチューブで聴いた。話の筋で、北斎が富獄百景の傑作を70歳から90歳までの高齢期に残していること、ミケランジェロの傑作も晩年期に集中している云々の指摘があった。そこで考えたのである。天才は幼くして顕れ、幼いと思えぬ業を成して世を驚かすものとは限らぬ。余命を意識するや、天才は溢れる才気を猪突して吐出するものかもしれぬ。人並みに馬齢を重ね、傘寿をやや越えて余命を窺うわが身に、これがいま無性に気になるのだ。

才とて何ほどのものもなく、ただ言霊の妙に細(ささ)やかな思いを馳せる凡才ながら、余命との張り合いには言い知れぬ苦労をしている。情け容赦なく過ぎる日々がそれぞれ24時間とは到底思えず、ときに睡る時間さえ惜しむ思いに苛まれる。HPに秒時計を吊しさえして己を戒める始末。

前述の話がきりりと効いたのは、それが時ならぬわが繊細な神経をむやみに刺激したからである。才のなさはさておき、老練とは言葉だけのことではないらしい、老いてこその仕事振りがあってもよい筈だ、志あれば若気の至りでやり損ねたことどもを一気呵成に成し遂げることも夢ではあるまい、などなどと夢想を始めたのである。

思えば、経験というものは積もる雪のようなもので誰にでも降る。比良の暮雪さながら愛でるもよし、採り溜めて衣服を洗うもよし、達磨に興じるもよし、才覚の及び様で千変万化だ。多くはこれを陶然と眺め、雪の行く末を案じはしないものだ。経験がどう生きるかは、懸かって個々の感性にある。

雪もたびたび降れば災難にもなる。それを転じて福となす才覚は経験を活かす伝に似てもって瞑すべしだ。老いてみれば、あらゆる降雪を経験しほぼ無意識の境地に至る。それを敢えて意識して見れば、雪の功罪について、雪についての清濁合わせた感覚が若者のそれを大いに凌駕していることに気づく。さて、老いたいま雪について蘊蓄を語れと云われれば、それは若者には到底及ばぬ「雪物語」を語ることができる。

雪ならずとも、老いたるものには経験という名のデータベースが豊かに積もっている。それと意識して取り込みつつ老いたものには、経験は譬(たと)えがたい財産であり資産だ。

前述の二人の天才が老いて殊更に輝いたという指摘は、この雪のアナロジーに照らして実に示唆に富んでいる。天才たちにとって経験とは、天賦の才が育つ畑にほかならない。畑を得て発芽し畑が潤えば根を伸ばし葉をつける。そして90歳を経た豊潤な土壌が妙なる実をつけるのは至極当然のことだ。凡人との圧倒的な相違は「刹那感」の有無である。雪が降り、積もり、溶け、消える刹那の有様(ありさま)を感じるか否か、それを意識に止めるか否かの違いだ。天才とは、すべてに刹那を感じ、その意味を意識に取り込み、果ては其れを「具象化して止む」の心意気を生き切ったものだ。

思うに、天才とは俗に天賦の才などを授けられたものでは決してない。天才とは、絶えず刹那を生きるべく生まれついたものに違いない。北斎もミケランジェロも、刹那を生きる習性、いや天性を余命に逆比例する密度で生き切ったひとに違いない。

傘寿を越えたいま、頻りに「時の流れ」を気に止むのである。老いの兆候と云えば身も蓋もないが、北斎云々が無性に気懸かりなのだ。それというのも、言葉への感度が歳を経るごとに高まるのをひしひしと感じるからだ。ひと言を書くつもりが言葉に惹かれて一廉(ひとかど)の書きものになり、書きながら沸々と言葉が湧き筆を急かせる。瞑目すれば絶えず主題が浮かび、起承転結の妙を愉しみつつ随想に纏める愉快は譬えようがない。

天性の才の有無はさておき、余命を指折りつつ書くべしとの声が何処(いずこ)からか聞こえる。仮にもせよ北斎らに肖(あやか)って、九十翁にして何某(なにがし)かの書きものを遺せるなら、望外の極みだ。さなくだに晩年を無為に過ごす愚を避けうる僥倖は何にも代え難い。嬉しきかな、老いの実り。

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