年の瀬のアインシュタイン

もういくつ寝たらやら、お師匠ょさんが走るやら、村の鎮守の神様のお札を売りに来るやらする里があるやも知れぬ。年の瀬から松の内まで、この国は出来事が目白に押し寄せやることが矢鱈と増える。秋の夜長の静謐は何処へ、ひとびとはわれを忘れて喧噪に溺れ「旧年」の回想に耽(ふけ)る。いや、その風情がなんともはや面白いのじゃ。

考えて見れば、過ぎ去る年をこれほど愛おしげに見送るなどは、およそ他の国では見られぬことじゃ。去った日々を沁み沁み振り返り、残る数日を餅搗きや箒捌き、賀状書きやら衣裳の整えやらに時を忘れて没頭する。押し迫ったねの挨拶もそぞろに、もうやり残したことはないかの気働き。

大晦(おおつごもり)は時の関の戸、行く手を阻まれて溜まり渦巻いて、曲がり波打って除夜の鐘を待つさまは尋常ではない。相対性を持ち出すまでもなく、時間はこの時確かに歪んでおる。

突き放して見れば、日本人の特異な感性が此処にある。一定量の時間を自在に伸ばし縮める才覚が年の瀬の喧噪に見え隠れしておる。時間を食材に粋な和食を拵える包丁捌きの真骨頂が見える。あれこれと行事を仕組んでは「味」を巧み、住まいを清め身支度を調えると称して盛り付けの妙を愉しむごときは、日本人ならではの粋としか思えぬ。忙中閑ありの感性がそれで、時間を自在に料理する腕前はわれわれの神授の技じゃ。

年が明けるや、堰き止められた時間がひと息に解き放たれ滔々と新たな年へと流れ出る。心あるひとは初日(はつひ)に誘われて元旦の初詣に馳せ参じる。そして二日、書き初め姫始めはその夜見る初夢への辿り道じゃ。それからそれへ、いずれも時の流れを流れと知らず無心に過ごす感覚は、これもまた日本人ならではの美感と云えよう。

そこで考えるのじゃ。

その昔、ある年の瀬にアフリカ人の知己が、勿論戯れ言だが、私にこう食って掛かりしおった。「なぜ日本ではオオミソカとガンタンの間に大仰な線を引くのか?」年越しの概念が分からぬと云うのじゃ。聞けばイスラム教で正月が別だというから当然の話なのじゃが、それを機に私は日本人の精神性と特異な時間感覚を悉(つぶさ)に語って聞かせものじゃ。

その特異な時間感覚を言い換えれば、時間の伸縮を自在にする技とも云える。意味あることに掛ける時間を密度高く過ごす。感覚的に時間の走りにブレーキを掛け、対時間効果を高める。逆に至らぬ作業に費やす時間は淀みなく流し忘却を図る。ものごと次第で使う時間の匙加減を案配するなど、何とも特異な時間感覚じゃ。

なにを隠そうこれは、癌騒ぎをした経験からわしが考え至った時間観じゃ。ものが取りよう次第のように時間ほど、いや時間こそ取りようで天地の違いがあると思うに至ったのじゃ。これは若者に咄嗟に閃く知恵の類ではなく、この歳になって改めて気付いた珠玉の英知じゃ。捕る皮算用の最中(さなか)に悟った好運は何ごとにも代え難い。「時間が曲げられる」事実をかの人にそっと耳打ちしたい気持じゃ。

ひとこと
年の終わりの世迷い言を閉じるにあたり、ひとことご報告申し上げる。かねてより、わしの傍らに壮年の分身が育っておる。奴がわしに乞うて曰く「その古くさい言葉遣いは他のもの書きに向け、この欄を私に引き継がせて」と。心残りじゃが奴の言い分にも一理あるようじゃ。そこで、次回よりは奴の今風な筆遣いで見参させるつもりじゃ。よろしくご引見を願う。わしは、それ、時間を織り変えてさらなく皮捕りに専念させていただく。これまでのご愛読を心からお礼申し上げる。よいお年をお迎えくだされ。

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