この世が「間抜け」に見えるんじゃが

世にいう相對性理論など、わしが知っている道理はないんじゃが、どうもこの相對性という言葉だけは、この歳になると薄らぼんやり分かるような気がするんじゃ。

なにも屁理屈じゃない。もっともなことにようやく気づいただけじゃ。幽霊見たか枯れ尾花ってなことでな、昔こう思ってたことがいまはああだ、というようなことだ。その逆もあるがな。

彌次喜多が京までまで何日かけて歩いたのかとか、いま新幹線なら何時間で行けるとか、われわれは気にもせぬがな、じつのところなにも分かっちゃいない。京の都の趣きは昔もいまもさして変わらぬ。その趣きがもし深淺、濃淡があるかに見えたら、それは京の都のせいではない。ん?蒟蒻問答さながらの話しじゃ。

いまメールとやらが葉書きに代はつた。そんなものがなかった頃は、一文字、一文字に思いを込めて綴った恋文がじゃ、何日かかけて「発酵」してお相手に届くわけじゃ。発酵食品じゃよ。香りがちがう、味がちがう。発酵じゃから、酒っ氣もあって、想ひは馥郁(ふくいく)と沁みる。弓を使う楽器をやったことのある人なら分かるんじゃが、弦に觸れた弓の毛が音を出すまでのわずかな「間」があるんじゃ。車ならブレーキの遊びのような、踏み込むまでのかすかな間じゃ。その「間」が手書きの便りにはある。なにを書こうか、どう書こうか、これが間になるんじゃ。

それがどうじゃ、メールの恋文は?寄せる想ひより先に指先が踊る。カチャカチャと定型文が並ぶ。打ちミスを繰り返してようやく、クリック。途端に着信、「間もなく」返信じゃ。「間」もないとは、このことじゃ。間がない。発酵などは別世界の話じゃ。

それが彌次喜多とどうつながるかって?。お分かりいただけぬか。困った御仁じゃ、京の都はひとの心、彌次喜多ははがき、メールが何かお分かりじゃろう。あの一見難しげな理論もはがきとメールの話と思へばよかろうに。時間と速度の話はわしには分からんが、はがきとメールなら分かる。

はがきとメールを考える知恵は、これでなかなか疎かには出來んじゃろう。発酵となるとたゞならぬ話しじゃ。ものごとすべて考えようじゃ。相對性とはそのことだと、いまさらのように思ふのじゃ。

では、ご機嫌よう。

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  1. 2017年 7月 18日
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